2016年3月27日日曜日

蜷川『ハムレット』の頓珍漢

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              
下記リンクの「蜷川『ハムレット』」なるものを見て….


     いや,驚いた.何とこの先,ガートルードは最終場,毒入りだとは知らずだが,我が子ハムレットへ杯を掲げ,どうあつても『祝福』blessing を送らなければならぬと言ふのに,その『伏線』となる,缺くべからざる大事な臺詞が,綺麗さつぱりカットされてゐる.これでは話がどうにもかうにも繋がらぬ.觀客たちは,何が何やら,たまたま偶然ガートルードは,毒入りワインを飲んで死ぬとの,あれよあれよのドタバタ芝居を見せられる嵌めとならう.

     と,さう思ひ,その最終場(http://youtu.be/ZzUM5bAbpvQ)を見たところ,これはいけない,ガートルードは登場からして,あらうことか滿面に笑みを湛へてゐる.すべて解決濟みとの風情である.ガートルードは浮かれに浮かれ,單なる『事故』から,輕率なまゝこの世を去つて,死後の裁きの場へと向かふ.たまたま毒に中つたは御氣の毒ながら.これでは先夫ハムレット王の亡靈も,こんな女を妻としてゐたかと,その羞づかしさから,蒼褪めたその顔をさへ,赤らめたに違ひ無い.もはや喜劇の始末である…出來は惡いが.どうやら,最早救ひやうも無い.

     さて,カットされたハムレットの臺詞とは,以下の通りだ.(原文Q2版の綴りによる)

    Ham.              once more good night,
   And when you are desirous to be blest(= blessed),
      Ile (= I'll) blessing beg of you,

     この臺詞は,最終場に至るガートルードにとり,延いては主人公ハムレットにとつて,この場面中『最も重要』な,ハムレットから母親ガートルードへの『言ひ渡し』である.この後のガートルードに纏る場面を,この臺詞無くして理解することは不可能だ.つまりこゝでハムレットは,いまだ完璧な悔悛にまで至らぬ母親へ向け,親子の證(あかし)とも言ふべき,親からの神への願ひ,すなはち blessing を「あなたが心より悔い改めたいと願ふまでは,拒み通す」と宣言したのだ.その時までは親でも子でも無いと言ふ言葉なのである.

     芝居としては,この臺詞から,ガートルードの『心のうちの苦しみ』卽ち,第5場で,亡靈が『預言』した「己が良心の荊の棘に苛まさせよ」との,新たな筋立てが始まることになる.つまりである,ガートルード役者にとつては,これを起點に,役者としての見せ場が始まるのだ.この臺詞があればこそ,ガートルードは,千〻に心を亂した末に,ハムレットからの手紙によつて,クローディアスによるハムレット殺害の企みを知り,己の輕率な罪を深く悔い,その徴として杯を手に,ハムレットへの blessing『祝福』を行ふのである.つまり上記の臺詞が無いのなら,敢へてクローディアスの制止を退けてまで,杯を手にする必要も無い事となる.

     その最終場の遣り取りは,以下の通りだ.

    Quee.    The Queene carowses to thy fortune Hamlet.
    Ham.     Good Madam.

     こゝで注目して貰ひたいのは,ガートルードの宣言への,ハムレットの返答だ.Good Madam. である.これを坪内逍遙は「かたじけなうござるが……」と譯し,ある飜譯者は「ありがたく」あるいは單な儀禮的な挨拶として「母上」などゝ意味無く譯したが,いづれも臺詞の重みに關して,理解を缺いた譯である.

     明らかにこれは,單なる禮と言ふものでは無く,ガートルードからの悔悛の表明に向けた『承認』の意の言葉だからだ.となれば,當然,これに呼應する臺詞となれば,前(さき)に掲げた第11場のハムレットによるガートルードへの『言ひ渡し』を措いて他に無い.その『完結』をシェイクスピアは描いたのである.

     兎にも角にも主人公ハムレットにとり己が母親の悔悛は,第2場における所謂第一獨白以來,重く伸し掛かる問題であり,つまりハムレットの抱へた『問題』は,クローディアスを抹殺するだけでは,終りはしない.己が母親の,不貞に等しい『墮落』に終止符が打たれぬ限り,本來は快濶であるハムレットの『惱み』が收まることは無く,いはゆるハムレットの『復讎の遲れ』なるものも,そこにこそ原因がある.

     それがやうやく最終場に至り,解決を見るとの極めて大事な場面なのだ.こゝに於いてこそハムレットは,心置き無く,クローディアスへの復讎に向かふ事が出來る.たゞし,杯にはクローディアスにより毒が盛られて,悔悛の意を傳へる爲の杯が,死への杯となるのである.まつたく皮肉な事ではあるが,世には,かくなる悲劇が起こり得る.デズデモーナやコーディーリアへも,苛酷な運命が訪れたやうに.

     さて,このDVD版の飜譯では,ハムレットは,僅かに「母上」とだけ言ひ,何ら氣にも止める風無く,頻りに劍の選定をのみするばかりだ.これでは,まつたく,芝居の筋が見失はれたまゝ,たゞ淡〻と無機質に,と言ふより頓珍漢なまゝに,事が進行するのみとなる.これを『悲劇』とは,どれほど世辭を心がけても,言ひ樣が無い.

     かうした事が起きるのも,件(くだん)の臺詞を輕率に,カットなどした當然の結果であるが,そもそも氣輕に削るとは,演出の蜷川氏が,まつたく『ハムレット』を理解してはをられぬからであり,また飜譯者氏も,カットにクレームを附けてはゐまいから,一體全體,何の爲に飜譯,上演に及んだか,不思議千萬と言ふほかは無い.

     たゞ,まあ,かうした『無理解・誤解』の『頓珍漢』は,日本に限つたことでは無い.いや,それどころか,カット無しの完全版だの『本場物』などゝ,したり顔の,今や英國男爵(Sir.)にまで上り詰めた Kenneth Branagh による『ハムレット』でさへ,カットはせずとも似たもので,ガートルードは最終場,同じく浮き浮き御登場となる.

     そして當然,ガートルードによる『祝福』場面も,息子の勝ちに浮かれた餘りの振舞ひで,以下の経緯は『事故』扱ひの有樣だ.つまり,そもそも,今囘カットされてゐる臺詞の持つ意味合を,彼らもまつたく理解してゐないのだ.シェイクスピア劇の『本場・傳統』を氣取らう英國すら,この始末である.日本の演出家の頓珍漢のみ,責める譯にも行かぬ『慘狀』こそ,今日の『ハムレット』をめぐる現實なのである.

     もつとも,英國に,無闇,無邪氣に『シェイクスピア劇の傳統』を求めることには,無理がある.歌舞伎の樣な聯綿たる傳統は,實のところ英國には,まつたく無いからだ.あるのは精〻1660年の王政復古以降のもので,その前代の1640年頃よりの淸敎徒革命政府が,ありとあらゆる芝居・娯樂を禁止して,根こそぎ劇場も壞しつくし,英國の地ではシェイクスピア劇のみならず,あらゆる芝居・舞臺の傳統は,その時『絶滅』させられたからだ.殘つたものは,印刷物のみ.すなはち上演の實際は,まつたく受け繼がれてなどゐ無いのである.

     今日あるのは,したがつて,王政復古以降の硏究家による,僅かに殘された文獻のみから推測に推測を重ねての,大變な苦勞と努力の末の結果であつて,たとへば今では『シェイクスピアの劇場』と言へば,半野外の圓形建物であつたことが知られてゐるが,淸敎徒革命による『絶滅』を挾み,さうしたことすら,まるで忘れられてゐたと言ふ.

     つまり全ては『絶滅』の後の,硏究家による『發見』の賜物で,『考古學的成果』に過ぎない.これを眞正の『傳統』だとは,なんとも言ひかねる.

     こんな譯で,『ハムレット』といふ御芝居も,エリザベス朝やジャコビアン時代,いつたいどのやうに上演されてゐたものか,手懸りと言へるほどのものは,まつたく無い.これが今日の,譯の解らぬ『ハムレット』を『粗製亂造』させた原因である.是非とも日本の觀客には,かうした『オレオレ詐欺』に乘せられぬよう,心より,願ふ次第である.

     さて,最後に,役者諸氏へ.今日の世は,かうした『頓珍漢』の,極みと言ふべき記録が手輕に,しかも殆んど『半永久的』に殘る事となる.ついては是非とも愼重に,演出家を選ばれるよう.…老婆心ならぬ『老爺心』にて,失禮ながら.                                    

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