2016年3月31日木曜日

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その4

ハムレット Hamlet 飜譯本文:

『マクベス(下書き)』は,こちら
                              

『ハムレット』第16場(4幕5場とも)について.その4

兎も角もである,ハムレットはオカルト物の芝居では無い.當時,狂人の目には,正氣の者では見ることの出來ぬ眞實が見えるものとの考へ方があつた事は,この後のレィアティーズの臺詞からも窺へるが,世の中には,さうした不思議なこともあるといふ程度の,斷片的な描き方に留まつてゐる.第一,オフィーリアの語るところは,目の前の現實とは,まつたく異なつてゐる事は明らかだ.この物語の主筋としては,そのことの方が遙かに重要である.

話を戾すと,それに,もしオフィーリアが『皮肉』を述べたのだとしたら,これを完璧な『狂氣』とは言ひ得無い.尠くとも何らかの『正氣』を殘してゐるといふことになる.完璧な『狂氣』となれば,今,目の前の出來事とは,まつたく別の世界の中に生きるのでなければ,救はれ得る餘地を殘してしまひ,觀客の心の中に,何故救ひの手を差し伸べる場面を作らぬのかとの疑念または願望の念を生じさせて仕舞ふ.さうした不首尾をシェイクスピアほどの作者がする筈も無い.

では,オフィーリアは今,どのやうな世界にゐるのか.冒頭の臺詞からして,既に己れが,どのやうな狀況の中にゐると思つてゐるのであらうか.ふたゝび引くと,この臺詞である.

Oph.  Where is the beautious Maiestie of Denmarke?

(さき)に僕は,この臺詞には,過度の『世辭』が含まれてゐると述べたのだが,如何であらうか.『皮肉』では有り得ぬとすると,その樣に思へぬか.しかしながら,である.如何に狂つた少女であるとて,あまりに過ぎた『世辭』ではないか.かうした『世辭』を,述べるオフィーリアの『必然』は,どこにあるのか.さう,皆さんは,思はれぬか.ご自身が『役者』となつたつもりで,御考へ願ひたい.いつたい全體,どんな氣持で,この臺詞を口に上せるのか.この明らさまな,『世辭』を述べ得る情念とは,と.


答は,この文の,冒頭に掲げたごとく,これを臆面も無く言ひ得る者は,オフィーリアの父,ポローニアスを措いては他に,まつたく有り得ない.と言ふ事は,果たして何を意味するか.オフィーリアは,父を失つての絶望から,『狂氣』の餘り,己れが父親ポローニアスの『不在』を埋めるといふ,何とも彼とも,哀れを窮む『妄想』に,取り憑かれたのだ.つまり,この場冒頭のオフィーリアは,ポローニアスとして,振舞ふのである.いやもう,何たる,シェイクスピアの『手法』であらうか.

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