2011年10月18日火曜日

ハムレット SCENE 1

ハムレット Hamlet 飜譯一覽
Scene 1 Scene 2 Scene 3 Scene 4 Scene 5 
Scene 6 Scene 7 Scene 8 Scene 9 Scene 10 Scene 11 
Scene 12 Scene 13 Scene 14 Scene 15 Scene 16 Scene 17 Scene 18 
Scene 19 Scene 20

『マクベス Macbeth(下書き)』は,こちら
                                      


デンマーク王子 ハムレットの 悲劇物語


THE
Tragicall Historie of
H A M L E T,
Prince of Denmarke.
By William Shakespeare. 



  初演當時は今日のやうな照明設備がある筈も無く,隨つて,舞臺は日中(午後2時または3時に開演),陽の光も差込まう明るさの中,半野外劇場で上演され,眞夜中の場面であれ,明るい舞臺の上で演じられた.
 舞臺には
『緞帳幕』の類(たぐひ)は一切無く,場面每の背景轉換は,ほゞ無用と考へられ,置き道具,小道具の變更,そして何よりも,登場人物の登退場で觀客は場の轉換を承知する.かうした芝居の『約束事』により,すべては役者と觀客の『想像力』に委ねられてゐたと言へる.
 場面は時間と空間を超えるものゝ舞臺は一つであり,この樣子から,まさに今日,映畫がひとつのスクリーンで時間と空間を超えて展開する樣を見るに,シェイクスピアこそは,『映畫』の流儀の先驅なのだとも言ひ得よう.
 演戲はおほむね張出し舞臺(奈落附き,緞帳幕類は無し)上で行はれ,その他,當時の劇場獨特の『二階舞臺』も使はれた.これにつき,是非とも一度は,當時の劇場再現圖またはロンドンに『復元』された The Globe Theatre の畫像などを御覽戴きたく願ふ.
 原文には『幕割り』も Scene『場』の表記も無いが,解説の必要上もあり,便宜を考へ附す事とした.
 行頭の數字は,譯註などの爲に譯者が附した.原文には無い.
 底本には,1604年に出版された,所謂 Second Quarto(第二四つ折本)を主に用ゐた.



The Tragedie of
HAMLET
Prince of Denmarke.

                  Scene 1
    バーナードー登場,次にフランシスコー,いづれも衞士.後註 1
1      バーナ. 誰だ.
     フラン. 默れ,そちらがだ.動くな.先づ,身許を證(あか)せ.
     バーナ. 王に榮(は)えあれ.
     フラン. バーナードーか.
5      バーナ. あゝ.後註 2
     フラン. さてまた,よくぞ,刻限通りに.[この臺詞前に時計の音]
     バーナ. それ今,十二時を.退(さが)り眠るが好い,
         フランシスコー.後註 3
     フラン. いや,この交代,大助かり.この寒さたるや.
         兎も角,うんざりだ.
     バーナ. で,見張りは事も無く.
10    フラン. 鼠すら這(は)はず.後註 4
     バーナ. まづは休め.もしも,
         ホレイショーとマーセラスに出遭つたら,
         見張りの仲間だ,二人に急げと.
         そこへ ホレイショー とマーセラス.
          [マーセラスのみ鉾を持つ.]
     フラン. どうやら聲(こゑ)が.止れい.何者か.
     ホレイ. 味方だ,この國の.
     マーセ. デンマーク王家の家臣.
15    フラン. ではあとの無事を.後註 5
     マーセ. いや,これは.役目御苦勞.誰が替りをか.
     フラン. バーナードーが,もう旣に.
         ではあと,無事に.       フラン. 退る.
     マーセ. それ,バーナードー.
     バーナ. やあ.で,ホレイショーは.
20    ホレイ. ほんのしるしに.
     バーナ. よく來た,ホレイショー.よくぞだ,マーセラス.
     ホレイ. で,あれは出たのか,今晩も.
     バーナ. 今まだ,何もだ.
     マーセ. ホレイショーは,たゞ目の誑(たぶ)らかしと言ひ,
         まるで信じようとせぬ.あの悍(おぞま)しさ,
         こちらは二度見たに.ならばと連れ出し,
         ともに見張りの眞夜中に,もしまた出れば,
         こちらの目の證(あかし),また,あれとも話をと.
25    ホレイ. いやいや,出るものか.
     バーナ. まづは坐れ.ならば今一度,城攻めを耳に,
         砦さながら話を拒む.これは二夜(ふたや)も目にした事だ.
     ホレイ. まあ,座らう.では聞かう,バーナードーの話とやら.
     バーナ. 昨夜(ゆふべ)はかうだ,時もまさに,
         北極星の西のあの星が,巡り輝き,
         今あるあたりで光りを放ち,
         マーセラスと此の身は,時計が一時の鐘を….
           亡靈 出る.後註 6
     マーセ. 靜かに,もうよい.見ろ,あれへまた.
30      バーナ. まさに姿は,亡き國王の.
     マーセ. 今だ,學者殿,あれの言葉で,ホレイショー.後註  7
     バーナ. 似てゞは,王に.見ろ,ホレイショー.
     ホレイ. いや,まさに.空恐ろしき,この謎は.
     バーナ. 口火が要るのだ.後註 8
35    マーセ. あれの言葉で,ホレイショー.
     ホレイ. そも,何者,妄(みだ)りにも眞夜中を.
         しかも,美〻(びゞ)しき鎧(よろひ)姿は,
         大地に眠る,デンマーク王,戰(いくさ)の出(いで)立ち.
         天の命なり,口を利け.
     マーセ. 肚(はら)を立てた.
     バーナ. 去つて行く.
     ホレイ. 待て,ものを言へ,言へと申すに   亡靈 退る.
40    マーセ. 消えた,應(こた)へもせず.
     バーナ. どうだ,ホレイショー,(ふる)へて顔も,
         蒼褪(あをざ)めて.もはやこれを,
         目の誑(たぶ)らかしとは.何だと思ふ.
     ホレイ. 神懸けて,これが眞(まこと)とは,
         具(つぶさ)に確(しか)と,目にしなければ.
     マーセ. で,似てゞは,王に.
    ホレイ. まさにものものと.あの鎧こそ,
         驕(おご)れるノルウェイ王との鬪ひの折の.
         顰(しか)めた面(おもて)も,とある協議に憤(いきどほ)り,
         氷に斧(をの)を突立てた時の.いや,奇怪な.
45    マーセ. 前も二度,まさに眞夜中,
         出陣の足取りで,見張りの傍(そば)を.
     ホレイ. 殊更(ことさら)何とは思ひ及ばぬ,
         が,これだけは言へようか.この先なにかの,
         異變が此の國に.
     マーセ. まあ座れ.で,誰か教へてゞは.
         何故にこれほど,嚴しい見張り勤めへと,
         夜每(よごと)家臣を扱(こ)き使ふ.何故また明け暮れ,
         鑄(い)型では大砲を造り,國の外からも武器の調達を.
         何ゆゑ船大工らを驅り立てゝ,仕事盡(づ)くめで,
         聖書に定める安息日(にち)すら休ませぬ.何の爲に,
         汗塗(まみ)れで,晝(ひる)も夜も無く働かせるのだ.
         誰に尋ねれば.  後註 9
     ホレイ. その事なら.尠(すくな)くも噂ではだが.
         前(さき)の國王,いや,その姿は今の今,立ち現れたが,
         かつて,それ,ノルウェイの王フォーティンブラスの,
         驕(おご)れる振舞ひ許し難(がた)しと,一騎討ちを挑(いど)まれた.
         結果,猛將ハムレットありと,西方諸國に名を馳(は)せし如く,
         見事,フォーティンブラスを斃(たふ)し,
         豫(かね)て交(かは)した取決めも,法と騎士道の掟に適(かな)へば,
         相手は虛(むな)しく,命もろとも,持てる總(すべ)ての殘りの領土は,
         勝者へと.勿論(もちろん)こちらにも相應(さうおう)なる條件(でうけん)は.
         つまりフォーティンブラスも,かつての領土を取り戻した筈,
         が,勝てばの話.かくて約定のもと,總てはハムレット王の手に.
         さてそのフォーティンブラスには,名も同じ王子が.
         これが血氣は盛んと見え,今囘ノルウェイ邊疆(へんきやう)の,
         そこやかしこ,獲物(えもの)を漁(あさ)る鱶(ふか)よろしく,
         法に楯(たて)(つ)く同志を集め,肚(はら)に育(はぐゝ)む企(くはだ)ての,
         餌にしようと.いや,知れた事,こちらは見通し.
         何(いづ)れデンマークに攻め入り,腕盡(づ)くで,
         父親の失つた,領地を取り戾す肚(はら)積り.とまあ,
         それに備へての,この戰(いくさ)支度(じたく)
         かうした見張りも同樣の事,上下(しやうか)ともども,
         國を擧(あ)げての騷ぎの源(みなもと)も,こゝにあるかと.
     バーナ. 違ひ無い,それだ.だからこそ,不吉な人影,
         鎧(よろひ)を附けて見張りの側を,王の姿で.
         あの,今も尙,戰(いくさ)に深き關(かかは)りのある.
50    ホレイ. ひと缺(かけ)の塵(ちり)に,眼(まなこ)も闇(やみ)へ.
         嘗(かつ)てローマ帝國全盛(ぜんせい)の折(をり)
         大シーザーが斃(たふ)される間際(まぎは)
         墓では柩(ひつぎ)が空(から)となり,
         白衣(びやくい)の死びとの絹を裂くかの聲〻(こゑごゑ)が,
         石畳(いしだゝみ)の路(みち)に谺(こだま)し,
         星〻は焰(ほのほ)の尾を曵(ひ)き,夜露を血と染め,
         禍(わざは)ひは太陽に及び,また,あの月も,
         その力には海の神,ネプチューンさへ從ふに,
         病みて此の世の,末とばかりの盈(み)ち虧(か)けを.
         まさに同じき兆(きざ)しの數〻が,
         今,先觸(さきぶ)れの如くにも,
         この世の定(さだめ)を示してか,
         迫る禍ひの,口上役を勤めてか,
         吿げ報せは,天地ともども此の國の,
         至るところで.
             亡靈 出る.
         が,待て,あれを.見ろ,あれへまた.
         よし,遮(さえぎ)らう,よしや祟(たゝ)るとも.
         待て,幻よ.
          ホレイショー 諸手(もろて)を廣(ひろ)ぐ.後註 10
         もし汝(なんぢ),喉(のんど)に物言ふ術(すべ)あらば,
         いざ語れ.もし,なにがしか善き事なさんとなら,
         汝,心の荷も下り,こちらも幸ひ,語るが良い.
         もしや密かに汝が國の,避け得る運命を知らうなら,
         さあ,語れ.
         或は生前,埋め隱(かく)したる不淨(ふじやう)の財,
         母なる大地の胎内(たいない)に遺(のこ)し,
         それを惜(を)しみ死して尙(なほ),迷ひ出たか.  
                   雄鶏(をんどり)(な)く.
         いざ語れ.行かず,申せ.
         止めろ,マーセラス.
     マーセ. いゝか,叩(たゝ)くぞ鉾(ほこ)で.
     ホレイ. やれ,止らぬなら.
     バーナ. こつちだ.
     ホレイ. こつちだ.            亡靈 退る.
55    マーセ. 消えた.拙(まづ)い事を.
         假(かり)にも王の裝(よそほ)ひに,手荒な眞似は.
         いづれ,空氣同然,傷附かぬ身には,戲(ざ)れ事に同じ.
     バーナ. 口を利(き)く,そこへ,雄鶏が鬨(とき)を.
     ホレイ. あの驚く樣(さま).罪(つみ)人が裁きの廷(には)へと,
         喚(よ)ばれし如く.聞くに雄鶏は,朝の先觸(さきぶ れ)役.
         際(きは)立つ鋭き啼(な)き聲で,
         晝(ひる)(つかさど)る,神を目覺めさせるとか.
         ひと度(たび)響くや,海,土,焰(ほのほ)や大氣のうちに,
         彷徨(さまよ)ひ潛(ひそ)む妖精や,惡靈(あくりやう)の類(たぐ)ひ,
         光を恐れ,己(おの)が根城(ねじろ)に引き蘢(こも)るといふ.
         まさに,傳(つた)へ聞くとほりかと.
     マーセ. 見えなくなつた,あの啼(な)き聲で.
         言ふではないか,我らが救ひ主の降誕を祝う季節には,
         曉(あかつき)を吿げる此の鶏(とり)が,夜通し唄ひ,
         爲に,如何なる精靈も出步かず,夜も健(すこ)やかに,
         星も祟(たゝ)りを止め,妖精も取憑(とりつ)かず,
         魔女も魔力を失ひ,唯〻淸く,
         嚴(おごそ)かな日〻が訪れると. 後註 11
     ホレイ. さうと聞きもし,いかにも一理ある事と.
         いやあれを.日輪が,茜(あかね)色の衣(ころも)を廣(ひろ)げ,
         朝露濡れる東の丘に.見張りもこれまで.
         さて,思ふが,どうだ,今宵(こよひ)見た事,
         王子ハムレットに傳へては.必ずや,あの亡靈,
         こちらには口を利かぬが,王子へならば何かを語らう.
         どうだ,同意か,餘(あま)さずと,お知らせするのだ.
         それが王子への忠愛の證(あかし),また,
         三人の務(つと)めに適(かな)はうでは.
60    マーセ. さうしよう,是非.いや今朝,お目に掛かれる,
         良い處が.                  退る.


後 註
 :バーナードーが松明(たいまつ)と長柄の鉾(ほこ) partisan を手に,邊(あた)りを窺(うかゞ)ひつゝ出る.何者かの出現を豫想するかの振舞ひである.觀客はバーナードーの手にする,もしくは舞臺に掲げられた松明などにより,場面は夜であると理解する仕組.そこへ,反對側から同じく鉾を手にフランシスコーが,さして緊迫した樣子も無く,見張役然として出る.
 今日の校訂本の中には,原文のト書きを無視してフランシスコーを先に登場させたり,板附きで開幕するやう『加筆』し,彼こそが今は見張りの任にあるとの『解説』をするものがあるが,理に落ちた,まつたく無用な手續きであり,そもそもさうした『指示書き』は,原文には一切無い.
 この手の『加筆』の意圖は,バーナードーが,見張りの任にあるフランシスコーより先に誰何(すいか)する奇妙さを際立たせたいとの事にあるやうだが,まづはバーナードーの過度の警戒心を觀客に印象づける方が芝居としては『急務』であつて,『解説』の爲の演戯を插(さしはさ)むと,卻(かへ)つて場面は退窟なものとなり,それを取戾さうと,演出家なる人〻は,大仰な效果音やら,おどろおどろしい音樂をやたらに流し,結果,場面の『意味』は吹き飛んで,たゞ觀客を混亂させるだけに終る.
 原文通り Enter Barnardo, and Francisco の順に從ひ,開演すべきと考へる.
 ところで上記ト書きの全文は Enter Barnardo, and Francisco, two Centinels.
で,この譯文では逍遙以來の慣例に隨(したが)ひ two Centinels を登場の二人を説明したものとしたが,しかしこれが,フランシスコーの同僚または配下の二人の衞士を意味しはしないかとの考へを捨て切れずにゐる.といふのも,この後 Q2では,役目を終へたフランシスコーが退場間際(まぎは),到着したばかりのマーセラスに Giue you good night. と別れの挨拶をすると,マーセラスは O, farwell honest souldiers, と複數の相手を前提に應へてゐるからだ.
 これにつき今日の解釋では,單に Q2 の『誤植』するが,マーセラスの側はバーナードーとホレイショーを加へ三人での見張りである.フランシスコーの側だけ獨りでの見張りとなると,これ自體奇妙な對比となり,その仰〻しさが劇中話題とされぬのも,いさゝか不自然だ.双方ともに複數による見張りであれば,話題とならぬのも當然となる.
 今日の演出では,上にも述べたやうに,たとへば逍遙の飜譯からして然うであるが,しばしばフランシスコーを板附きまたは先に無言で舞臺に登場させて邊りを見𢌞らせ,フランシスコーこそ現時點では見張り役を務める側との『説明芝居』が行はれてゐるが,原文のト書き通りの順番で,まづはバーナードーを獨りで登場させ,その後フランシスコーを都合三人で登場させれば,フランシスコーの側に『見張り役』然とした風貌・風采を與へる事ともなり,冒頭のフランシスコーの『徘徊』は不要となる.はるかに合理的であると考へるのだが,如何であらうか.

 :冒頭の緊迫した遣取りは,この行まで.二人の會話は日常的な雰圍氣に變る.
後に判るが,バーナードーが警戒してゐたのは亡靈の出現である.相手がフランシスコーと判つたなら,緊張は不要.すると,必然的に觀客の心には,バーナードーの第一聲が齎す『緊迫感』との對比が生まれ,この後の展開への興味が増す事となる.はたして何があるのだらうかと.シェイクスピアに『拔かり』は無い.
 ともかく開演早〻から,妙な虛假(こけ)威しはしないものだ.この場面全體を,息急き切つたやうに進める演出が橫行するが,讀み違ひも甚だしい.戰亂の危機にあるデンマークとの思ひ込みがあるやうだが,差し迫つた出來事は何一つ無く,かうした見張りの強化された現狀を,マーセラス等,見張りに驅り出された武人らは,奇妙なものとしてもゐる事は,この後のホレイショーへの質問にも表れてゐるとほりだ.

 :時報は第4場冒頭の遣取りとの整合性からも,時計による比較的小さな音,多分はバーナードーの持つ携帶時計の音が鳴ると考へる.當時
(たうじ)の時計には,まだ秒針は無く時針のみで,每正時にはベルを鳴らす仕組を持つ.Nürnberg Egg の名で調べて戴ければ,樣子が判らう.大變高價な持ち物であり,通常『步哨』を務める兵士の携帯は考へられ無い.
 かうした點からも,後の臺詞(せりふ)にある通り,元來『步哨』の役などはせぬ武人( Centinels )までも驅り出されてゐるデンマーク王國の有樣が見て取れる.たゞし,武人たちには,その命令に何の意味があるものか,まつたく理解されてをらず,然したる緊迫感の無い事は,後の臺詞のとほりである.デンマークは,かうした奇妙な狀況にあるといふ事だ.

 :バーナードーは時報の話題の直ぐあと Get thee to bed 「退つて寝床へと」とフランシスコーに交代を促す.緊迫した狀況との自覺があれば,何よりも先づそれまでの見張りの報吿を求めたであらう.その後9行目に至り報吿を求めるが,臺詞は Haue you had quiet guard? と,それとなく亡靈目擊の有無を探る意味もあらうが,何事も無かつた事を前提とした問ひ掛けであり,答へるフランシスコーもバーナードーの臺詞 quiet guard に補足して Not a mouse stirring.と,半ば步哨任務の無益を自嘲する臺詞を述べる.「鼠すら姿を見せぬ」ほど,平穩無事といふ訣である.

 この遣取り自體は,上に述べた『意味合ひ』を持つが,たゞ今ひとつ,たとへば船などでは,やがて難破する運命にある事を察知した鼠などの生き物が,早〻に船から逃げて,姿を消すとの言ひ傳へもあり,觀客たちには,さうした含みを印象づける意圖が作者には,あつたものとも考へられる.
    なほ,初演當時の觀客にとり,日常鼠と出食はす事は珍しく無く,この爲,鼠の蚤が菌を媒介する黑死病は幾度と無くロンドンで大流行し,感染原因も解らず豫防もなし得ず,夥しい數の人命が奪はれもした.

 :原文は Give you good night. で,元は May God give you good night. である.つまり『無事』を齎す力は神の領域に屬することであつて,人間の身つまりは神の被造物(creature)にすぎぬフランシスコー自身には無く,I (will) give you 〜としたのでは,呪術を行使した事になり,信仰に反する異端もしくは異敎徒の行ひとなる.blessing 祝福には,常に神が介在すると言へ,祝福を與へる側の神への信仰を前提とするのだ.

 :亡靈は甲冑姿,手に元帥杖,兜の顔當ては上げ,靑褪めた顔.ふたたび緊迫した場面となる.

 :原文に「あれの言葉」にあたる臺詞は無い.ただ speake to it Horatio. と言つてゐるだけだが,初演當時の『常識』または『俗信』により,亡靈の類ひに話し掛ける場合,ラテン語しか通じないとされてをり,ホレイショーがこの場に呼ばれたのも,學生(學者)としてのラテン語の才を求められた事に因る. 

 だが,かうした事情は現代日本の我〻には判り難い.多少ともその意味を持たせ「あれの言葉」とした.つまり亡靈に語りかけるホレイショーの臺詞は,ラテン語との心なのだ.たゞし,原文の臺詞そのものは,觀客の解する英語そのもの.その間のマーセラスらは,ホレイショーの臺詞の意味を,理解出來てゐないといつた風に描かれてゐる.

 :原文は It would be spoke to. で,話し掛けてもらいたい樣だ,の意.これも初演當時の『常識』もしくは『俗信』で,亡靈は問ひ掛けられなければ,口をきく事が出來ないとされてゐたと言ふ.つまり,自ら口火を切れないのである.亡靈役者はそれらしき素振りの演戲をする事.この後第2場で,その旨ホレイショーがハムレットに報吿するからでもある.

 :彼ら武人たちは何故過度の警戒をしなければならぬのか,まつたく理解出來ない狀況なのだ.つまりデンマークそのものは軍備の増強で慌たゞしいものゝ,國の存立を脅かされるやうな緊迫した狀況下にあるとは,戰の當事者である武人たちには認識されてゐないといふチグハグな狀況にある.これが冒頭場面で示されるべき場の基調である.さうした,さしたる問題も無さゝうな狀況の中で,亡靈が出現する.異樣な事が起きたのだ.

 10:原文のこのト書きは It spreads his armes. とあり,亡靈が腕を廣げるとなるが,ホレイショーの亡靈を遮るとの臺詞から,ホレイショーへのト書きとして譯した.

 11:譯文の出來は別として,このマーセラスの臺詞は美しい.異樣な物語の初めの場面にあつて,何らかの『救ひ』を觀客に豫感させる.悍(おぞ)ましさだけに終る芝居ではない事を知らされた觀客は,自づと作者の物語の行方に,更に心を委ねる事とならう.


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